2014年7月16日水曜日

日本からの最初の宣教師の孫の死

 私が協力している都内のある教会の82歳の兄弟が先日、主の御許に召されました。牧師がいない教会なので、私が葬儀の司式をさせていただきました。実は、この方は日本のプロテスタント教会の第一号の宣教師乗松雅休(のりまつまさやす)の孫に当たる方です。その召された兄弟が元気だったころ、祖父乗松雅休について記されているいくつもの資料を、「ぜひお読みください」と渡されました。
 ブレザレンの立場に立つ乗松雅休は1896年に朝鮮に渡り、水原(スウウオン)の街で家族と共に伝道を続けました。宣教師と言っても、支援会のようなものはなく、まさに自給宣教師であったようです。最初は「ハナニム」(神さま)としか言えなかったが、後にはどこで日本語を習ったのとまで言われるようになったとのこと。朝鮮の方々と同じような生活、それも極度の貧しさの中で、夫人は30歳代で病で召されましたが、伝道を継続し、その姿に現地の人々は大きな感動を覚えたとのことです。1922年に42歳で亡くなった後に、記念碑が建てられ、そこにはハングルで、以下のように記されているそうです。

 「生きるのも主のため、死ぬのも主のため、始め人のため、終わりも人のため、その生涯まごころを尽くして愛し、、 おのれは主の使命を帯びてその一切の所有を捨て、夫婦同心、福音を朝鮮に伝える。 数十年の風霜、その苦しみいかに。心肺は激しく痛み、皮骨は凍え飢え、手足は痛み損(そこ)なわれ、その挑戦における犠牲極まりぬ。 しかも立ち居ふるまいはただ主に頼り、苦に甘んずる楽しみを改めず、その生涯は祈祷と感謝なり。 わが多くの兄弟を得、同じく主に会し、主の名は栄えを得。 その生涯、苦にしてまた栄えなり。 臨終の口に朝鮮の兄弟のことを絶たず、その骨を朝鮮に残さんことを願う。 これわれらの心碑となすゆえん。 こうして主の再臨の日に至るなり。」1922年4月16日朝鮮弟妹一同

 教会史の専門家である中村敏先生は、日本の教会の海外宣教の歩みを『日本プロテスタント海外宣教史」として著されましたが、その副題は『乗松雅休から現在まで』です。
 その乗松雅休の関係者の死に立ち会うことができたのは、大きな恵みでした。日韓関係が困難になっているこの時代、私たちがどのように生きるべきかを深く考えさせられています。(gaki)