2016年9月12日月曜日

How beautiful are the feet of them~ローマ10-15

 教会の聖歌隊でメサイアの合唱曲集を学んでいる。本来、聖歌隊の奉仕の場である礼拝で、より最善の賛美を捧げることができるように・・・と賛美向上の訓練から始まった取り組みだ。

何年越しかで、全曲を練習中だが、題名のごとく「救い主:メサイア」は旧約聖書・新約聖書からみ言葉を引用しての大曲であり、合唱と各パートのソロが入る美しい調べだ。
中でも最も有名なのは、誰でも一度は聞いた事のある曲で2部の終わりに歌われる「ハレルヤ」だろう。
その2部の丁度 真ん中あたりにソプラノのアリアで、ローマ人への手紙10章15節のみ言葉から「How beautiful are the feet of them」という曲がある。短い美しい曲だ。
 
 この聖書箇所が昔から不思議だった。「み言葉を述べ伝える人の足は、なんと美しい」=(訳によっては、「りっぱでしょう」となっている)どうして足なのだろう?と思っていた。「信仰」とか、もしくは口・唇?、目とか表情とか姿、そう・・・例えば「心」とか「魂」・・・ならなんとなくわかる気がするけれど、「足」と書かれているのは、どうしてだろう。 宣教師を派遣する宣教団体に来て奉仕している者でありながら、小さい者の正直な告白なのだ。それが今回のニュース215号の中の松崎主事の記事を読んでいて、このみ言葉の「足」という言葉にやっと納得いく時を得た。そして、最前線で孤高奮闘する宣教師を覚え、この文章に涙が出た。もちろん、様々を祈っているが、こうして具体的な文章になると心に迫る。 多くの方に是非、目を通していただきたいと願う。 
この国にいて、メールやラインでのやり取りに日々簡単に言葉が飛び交い、安価に作成できるチラシやトラクトで福音が届けられ、ニュースレターによって現地での恵み深い宣教活動の知らせが届けられるのは、当たり前だ。また、伝道例会も宣教の為のコンサートやイベントも、日曜日の礼拝でさえ、いらしてください!と誘い、多くの人に来てもらいたいと祈る。だけれども、どんなにか危険な地域では、顔と顔を合わせて伝えに行かなくてはならない。福音を危険と引き換えに伝えに行くという、その地に行かなければできない事、できない場所も多いことを今更ながら覚えさせられる。

この地でも・・私達にも・・、顔と顔を合わせて伝えなくてはいけない人が身近にいるのではないか、と思わされる。(N)

「遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のようにかかれているとおりです。『良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。』」
                   ローマ人への手紙10章15節