2016年9月30日金曜日

「主われを愛す」♪

 やっと青空が広がり気持ちのよい風が吹いた9月の最後の日、教会で91歳のクリスチャンのH姉の葬儀があった。幼い頃に福音を聞いていたが、長い人生の旅路に86歳で病床洗礼を受けられ、その後も手厚い看護を受けながら、天に召されて行かれた。
 H姉は幼い頃にアメリカの宣教師 ハナフォード師夫人より日曜学校で福音を聞き、生涯の愛唱歌が「主われを愛す」だったそうだ。~ハナフォード宣教師の経歴は、明治学院大学教授で、大井町教会のオルガニスト、賛美歌改定委員と記載されている。~
幼いころに福音を聞きその後H姉は、結婚し、娘二人を授かり、その娘2人をミッション系の幼稚園に通わせる。彼女は、つらい時こそ「主われを愛す」を口ずさんでいたそうだ。
娘たち2人は、その後洗礼を受けクリスチャンになる。長女のK姉とは、同じ教会の祈りの姉妹で、召天されたお母さまが入居していた施設には、私の義父も導かれてお世話になった。

 この長女にあたるK姉はいつも、「宣教師に福音を伝えられた人の信仰はすごいのよ」と言っていた。ご自身のお母さまは、福音を最初に聞いて80年近い時間を経て86歳で洗礼を受けられたが、イエス様を信じる信仰をずーと持ち続け、幼いころに教わった賛美歌の「主われを愛す」を大切に歌って、主と共に歩んでこられたのだ。 神様のご計画は、本当にいつも不思議で、最初に福音を聞いたお母さまより先に娘さん2人が洗礼を受けクリスチャンになり、その孫にあたるM姉も救われ教会の奏楽者としてオルガンを弾かれている。そしてこのお孫さんのM姉がこの葬儀の日の奏楽をされた。
オルガニストだったハナフォード先生がそこにおられたら、どんなに喜ばれたことだろう!と思う。また、ひ孫にあたる子は、赤ちゃんの時から教会の幼児クラスに通い、小学生になった今は素晴らしい祈りを捧げる子になっている。

主が送ってくださった宣教師の忠実な働きと祈りが100年を迎えようとする時になって、多くの実を見せてくれる。葬儀の最中、このH姉の人生のストーリーを聞かせていただきながら、この収穫の秋に豊かにみずみずしい実が沢山付いている「ぶどうの房」を思い浮かべていた。その宣教師や、送り出してくださった支える方々の熱い祈りが、こうして次世代に受け継がれていることを教えられた。何より、賛美歌で歌われている如くに、主はその魂を忠実に愛し忍耐強く共に歩んでくださるという恵みに圧倒される。(N)

 「わたしは決してあなたを離れず また あなたを捨てない」ヘブル13章5節

2016年9月28日水曜日

浦和の世界宣教祈祷会

 浦和では、毎月第4火曜日の午前中に世界宣教祈祷会を行っています。場所は、浦和コミュニティーセンターの一室をお借りしています。この場所は、浦和駅東口の正面パルコの10階にあります公共施設です。毎月、祈りの勇士が集まり宣教の為に熱く祈りをささげる2時間は、充実した時間です。
 2008年11月から始まりました。最初は、近隣の宣教に関心のある方が集まっての祈り会でしたが、主があちこち出かける先で出会わせてくださる宣教師の方々に気楽にお声をかけたところ、いらしてくださるようになりました。感謝してお招きし、現地での活動報告、祈りの課題をお聞きし祈る時間を持つようにもなりました。今までに延べ45人の宣教師がここから祈り送り出されました。
 超教派の集まりで、場所の予約や連絡係のコーディネーターはいますが、祈り手も、当日にならなければ何名与えられるか?わからないような自由な場所です。一度は、2人の日がありましたし、時には最多人数の30人を迎える日もありました。祈り手の人数は、主が送ってくださいます。また、たとえ多くを祈ったとしても、またそれ以上に、またその事に関わりなく、世界で繰り広げられる神様の御業は淡々と進められていることをいつも感じます。時には、他では中々聞く機会を得ない要配慮の国や地域での宣教活動も知ることができます。はじめは、筆者も「祈りの為に・・」と集っていましたが、何年か集ううちに「ここは主が宣教を教えてくださる場なのだ」と学びの場として豊かにされる恵みを覚えています。
 先月、初めて台風により中止をしました。2か月越しで昨日いらしてくださったのは、ベルギー宣教会から遣わされる川上寧・真咲宣教師ご夫妻でした。神戸で伝道会議が行われている中、人数が少ないのかもしれないと思いましたが、主に集められた祈り手は11名でした。新しい方も加わって、今月も豊かな祈りの時間を持てたことを感謝しました。(N)

2016年9月12日月曜日

How beautiful are the feet of them~ローマ10-15

 教会の聖歌隊でメサイアの合唱曲集を学んでいる。本来、聖歌隊の奉仕の場である礼拝で、より最善の賛美を捧げることができるように・・・と賛美向上の訓練から始まった取り組みだ。

何年越しかで、全曲を練習中だが、題名のごとく「救い主:メサイア」は旧約聖書・新約聖書からみ言葉を引用しての大曲であり、合唱と各パートのソロが入る美しい調べだ。
中でも最も有名なのは、誰でも一度は聞いた事のある曲で2部の終わりに歌われる「ハレルヤ」だろう。
その2部の丁度 真ん中あたりにソプラノのアリアで、ローマ人への手紙10章15節のみ言葉から「How beautiful are the feet of them」という曲がある。短い美しい曲だ。
 
 この聖書箇所が昔から不思議だった。「み言葉を述べ伝える人の足は、なんと美しい」=(訳によっては、「りっぱでしょう」となっている)どうして足なのだろう?と思っていた。「信仰」とか、もしくは口・唇?、目とか表情とか姿、そう・・・例えば「心」とか「魂」・・・ならなんとなくわかる気がするけれど、「足」と書かれているのは、どうしてだろう。 宣教師を派遣する宣教団体に来て奉仕している者でありながら、小さい者の正直な告白なのだ。それが今回のニュース215号の中の松崎主事の記事を読んでいて、このみ言葉の「足」という言葉にやっと納得いく時を得た。そして、最前線で孤高奮闘する宣教師を覚え、この文章に涙が出た。もちろん、様々を祈っているが、こうして具体的な文章になると心に迫る。 多くの方に是非、目を通していただきたいと願う。 
この国にいて、メールやラインでのやり取りに日々簡単に言葉が飛び交い、安価に作成できるチラシやトラクトで福音が届けられ、ニュースレターによって現地での恵み深い宣教活動の知らせが届けられるのは、当たり前だ。また、伝道例会も宣教の為のコンサートやイベントも、日曜日の礼拝でさえ、いらしてください!と誘い、多くの人に来てもらいたいと祈る。だけれども、どんなにか危険な地域では、顔と顔を合わせて伝えに行かなくてはならない。福音を危険と引き換えに伝えに行くという、その地に行かなければできない事、できない場所も多いことを今更ながら覚えさせられる。

この地でも・・私達にも・・、顔と顔を合わせて伝えなくてはいけない人が身近にいるのではないか、と思わされる。(N)

「遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のようにかかれているとおりです。『良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。』」
                   ローマ人への手紙10章15節

2016年9月7日水曜日

~ラサへの歩き方~「祈り」の映画

 中国映画 『ラサへの歩き方~祈りの2400km』 を見てきた。 

チベット仏教を信仰しているカム地方の小さな村から総勢11人がグループとなって、生涯に1度は巡礼に行きたいと願う地「ラサ」へ祈りの巡礼の旅に出る。

キリスト教やイスラム教の巡礼の旅と違うのは、彼らは「五体投地」=(全身を地に投げ出して行う最も丁寧な祈りの捧げ方)で、片道1200kmを歩くのだ。いや、、歩くというよりも私の見た感想は、7歩でヘッドスライディングをしながらと言うのが、その祈りのスタイルを紹介するに一番想像しやすい言葉かもしれないと思う。手には、木の板で作ったスリッパのような物をはめ、体の前半分には牛の皮で作った膝下までの大きなエプロンを着る。決まった祈りを唱え歩きながら、頭の上で一度合掌、胸の前で一度合掌、そして全身を地に投げ出しひれ伏し合掌、を繰り返す。そう!その祈りのスタイルを、地面にひれ伏した途端に、また立ち上がってはそこから同じ7歩の祈りの五体投地をしてひたすら歩く。そう!彼らは、1200kmそれを繰り返しながらラサをめざすのだ。

 旅の11人のメンバーには、父を亡くしたばかりで弔いの旅をする男性、生まれてくる子に祝福を望む妊婦、人生を祝福してもらいたいと参加した10歳の女の子。また家畜を屠る仕事をしていて罪悪感に悩まされている男が屠畜の罪を償いたいと旅に参加する。ラサへの理由は、一人一人様々だ。 旅の途中で、妊婦は産気づき新しい命が誕生し、年配の祈り手はある朝、地上での命の時間を終える。彼らは、毎日テントを張り、煮炊きし、毎日寝る前には全員での祈りの時間を持ちと助け合って様々な事を乗り越えていく。彼らの祈りは、個人的な祈りではなく、この地上にある生きとし生けるものへの祈りだ。祈りの映画というので、先に情報を得ることなく全く内容を知らずに見に行った。そして「五体投地」に唖然とし、ずーとその祈りの巡礼を続ける彼らの真摯な思いに圧倒された。アスファルトの道に頭までべったり付ける最初の驚きなど大したことはなく、大雨の後の土砂が流れる川のような道路も、ザバーンと音をたてて体中に泥水を浴びながら五体投地を繰り返す。山道、砂利道、泥道、雪道、凍道、・・・ひたすら、祈りの熱い巡礼の旅が繰り広げられる。もう、途中から美しい中国の景色が目に入らない。

 8月に「祈りの力」というアメリカの映画を見たが、これとは比べられない別の思いになった。また、2014年の夏には、「大いなる沈黙へ~グランド・シャルトルーズ修道院」という映画を見た事も思い出していた。この修道院の映画でも、驚いたことの一つは礼拝堂で体を地面に投げ出しちょっと横座りのような恰好で祈りをささげる修道士たちの姿だった。あれもいわゆる「五体投地」と同じ思いからのスタイルなのだろうか。    結局、ラサへの巡礼の旅は、このスタイルで往復2400kmほとんど1年かけて行われていた。映画を見ながら、祈りのスタイルは違えども、私達キリスト者も、毎日が巡礼の旅。しかし、彼らのように、「いついかなる時も、最初に主にひれ伏し祈りをささげて歩んでいるだろうか?」と祈りへの思いを探られた。そして、ラサへ巡礼の旅に出る彼らを尊重しつつも、主の福音がその地に届けられるようにと祈った。(N)