2016年8月4日木曜日

嵐のような7月

嵐のような7月が過ぎました。「超多忙」という言葉がぴったりでしたが、一方で「超恵み」でもあった日々でした。
理事会から始まり、中旬にはJOMAセミナー、そして下旬には「リトリート」と大きな行事が続きました。事務局としては、理事会、JOMAセミナー共に、事務局が影に日向に奉仕するものでしたが、リトリートは、参加者としてただ「受け取る」という、これまでにない恵みの時でした。
もちろん奉仕の中にも、たくさんの恵みがあり、特にJOMAセミナーでは、講師の先生、分科会、パネルディスカッションなどを通して、たくさんの教えと示唆をいただき、今神様がなさっている宣教の新しい風にも目が開かれ、また自分の心を点検し、最初の愛に戻って心を新たにさせられ、主に仕えていくことを教えられました。しかし「リトリート」は更に、根本的な「素の私」に焦点が当たられ、講師の心理カウンセラーの先生によって、幼少期からのこれまでの歩みの中で、「傷」を受けたことなどを思い巡らし、それが心の奥深くに巣くう「怒り」になっていることを静まりの中で示されていきました。私は今回のリトリートを通して、全く自分では考えてもいなかったこと、遠い記憶を思い巡らせても思い出せなかったようなことに光が当たられ、「そうか、神様はこの部分を明け渡すように願っていらしたんだ」と思えたのです。

日々、事務局は派遣されている宣教師のために、何が最善かと祈り考え、具体化して支えていくかを考え話し合っているわけですが、時には、自分自身の魂の点検(やっているつもりでしたが)や口渇している自分の赤信号を見逃さずに、「奉仕」する側から「受ける」側になることがいかに大切かと思わされました。

まだまだ自分の中に、主の前に開いていない引き出しがあることを思います。私は全部明けたつもりでした。 でも半分しか開けていない引き出しもあったんだな、と思います。引き出しがあることすら忘れている、という引き出しがまだあるかもしれない。そしてそれは、主の時に、主の優しい恵みの光を当ててくださるために開けてくださるものであり、癒しと回復を与えてくださるためであることを思います。人生という様々なシーズンの中で、主と共に歩みながら、一生かかって開けていく作業をしていくものなのかもしれないと思わされました。(K)